豊島は香川県小豆郡土庄町に属し、豊かな自然に恵まれた文字どおり「豊かな島」でした。
ところが、1965年頃から土地を所有する業者によって水ヶ浦の土砂が大量に採られるようになりました。業者はこの跡地に有害産業廃棄物処分場を計画、住民たちが猛反対、香川県庁にデモ行進しました。「木屑、食品汚泥など無害な産廃を利用してミミズの養殖をする」と矛先をかわした業者に、香川県が1978年に事業許可を出しました。
業者は、ほどなくして産廃の不法処理を始めました。1980年代になると、香川県は住民たちには業者は金属回収業を行っていると説明する一方で、業者には古物商の届出をするよう勧め、豊島が「ゴミの島」になるきっかけとなりました。フェリー転用のゴミ船を玄関口の家浦港に接岸し、産廃を陸揚げ、産廃満載のダンプカーが我がもの顔に豊島を走りました。現場では野焼きが連日行われ、児童らにぜんそくなどの健康被害が相次ぎました。
1990年11月、兵庫県警が業者を摘発、「ミミズの養殖を騙った産廃の不法投棄」が容疑でした。住民たちは事件を受けて直ちに「廃棄物対策豊島住民会議」を再発足させました。広大な処分地には、廃油、製紙汚泥、シュレッダーダスト、ラガーロープなどの産廃が野積みにされて山をなしていました。住民たちは島を挙げて,県の責任を認めさせ原状回復を求める国の公害調停を申請しました。公害調停とは、公害紛争処理法に基づき、裁判に代わって公害紛争の早期解決を求める制度です。香川県庁前での150日間にわたる抗議の立ちっ放しを皮切りに、考えうる限りの闘いを繰り広げました。産廃を提げて東京銀座への抗議のキャラバン、理解と支援を求めての香川県内100ヶ所座談会など、中坊公平弁護団長の指揮のもと小さな島には苛酷とも思える「草の根の闘い」でもありました。発端から、2000年の公害調停の最終合意まで25年間を要すことになりました。
2000年6月6日、公害調停で知事が謝罪し、原状回復の合意が成立します。37回目の調停でした。「勝ったで」「約束守ったで」という住民の声と涙が苛酷な豊島の闘いを物語っていました。「自分たちのことは自分たちで」という住民の闘いぶりは「草の根の民主主義」とも評価され、世論の共感を生みました。事件の発端から公害調停成立の2000年までに住民の重ねた島の寄り合いや会合は6千回を超えました。会議の翌日には東京での調停や抗議行動、記者会見などが常態化、「よくぞ闘ったもの」と住民たちは語ります。
調停成立後は長く苦しい道のりを乗り越え、豊島に「美しい瀬戸内海の自然と調和する姿」が戻るよう、住民と行政が「共創」の理念に基づいて行動することを決めました。
2000年から公費による原状回復の作業が続いています。一日300トン、西隣の直島に船で運んで溶融処理するものです。2012年度末までの処理量は全体の6割の56万トン、廃棄物と汚染土壌の総量が93万8千トンであったことが判明し、処理完了も3年半ずれ込んで2016年10月になると見られていました。
しかし豊島からの撤去が完了したのは2017年3月28日、直島での無害化処理完了は6月12日でした。処理された総量は約91万2千トンと発表されました。また2018年1月には地下水の浄化作業中、取り残しの廃棄物が見つかりました。その後、再調査と撤去が行われ、取り残し廃棄物616トンの処理が完了したのは2019年7月のことでした。
地下水の浄化は、産廃特措法による国の支援が受けられる延長期限2023年3月末までの排水基準達成が目指されました。途中、汚染の揺り戻しもありましたが、2023年3月初めに浄化対策が終了しました。あわせて関連施設や遮水壁の撤去も行われ、また跡地の整地も同年同月中に完了しました。今後は地下水を雨水等による自然浄化によって環境基準以下にする課題が残されています。環境基準達成の確認後、住民に土地が返還される予定です。しかし2024年3月現在、その時期が何年後になるか、まだ見通しの立たない状況が続いています。
1995年の国の実態調査から豊島の廃棄物に関わった地下水の専門家、中杉修身氏(元豊島処分地地下水·雨水等対策検討会座長)は「ここまで詳細に地下水を調べて対策をしたところはない」(2023年3月)と述べています。
日本で初の大規模な原状回復と言う試みは困難を極めながら続いています。